「俳優にはお芝居よりも大事なことがある気がするんです。それは石原さん、渡さんからも言われたことです。『ひろし、芝居なんかしちゃだめだよ』って。
二人ともお芝居は下手ですよね。僕も含めて、うちはみんな下手です。でも芝居はセリフを言ったりカメラの前で動いていれば、なんとかなるんです。きっとそれは大切なことではない。
彼らにはそれで許される圧倒的存在感がある。石原プロは素材勝負できる役者ばかり揃っていた。そういう人材を「揃えた」が正確か。
残念ながら凡人はそうは行かず、ひたすら勉強と練習が必要で、それでもすぐに火が消える。オーラもなければ目に焼き付く個性もない。元々。
最近書いたばかりだが、他人がスーパーモデルと同じ努力をしたとしてもスーパーモデルになれないのは、努力よりも素材が占める割合が上回っているから。努力でなんとかなるのは途中まで。
演技しなくても立ってるだけでサマになる人は特別なヒト。
例えば、日本の料理人はあまりオモシロイ味付けができないことに通じる。素材が良いから。牛も豚も鳥もフルーツも、1つ1つが単体で賞を穫るような素材ばかりなので、味付けに精を出すより素材を活かすことに専念する(自然とそうなる)。
寿司や刺身なんてその筆頭で、もはや“切る”ことが全てという刀文化の延長と言っていいくらいの究極のミニマリズムの世界。
一方でオモシロイ味付けができる料理人のほとんどは「フランスで修行してきました」という人ばかり。フランスに大した素材がないとは言わないが、食材のニオイを抑えるために活用するハーブや、マリアージュを追求するワインの世界は、フランスの香水文化と共通していて、そんなに強烈な個性のものばかり組み合わせて何で破綻しないのというところに芸術性がある。ファッションブランドの色・柄づかいも同じ。才能がない者が真似するとカオスと化する。
たとえば、『西部警察』はストーリーも大した話ではなくて、爆破して車がひっくり返るだけです(笑)。
それを自覚してやってるところが私は好き(笑)。大層なものに仕立て上げない正直さ。
最後に石原さんと渡さんの二人が港をバックにトレンチコートを着て歩くだけで説得力がある。どんなストーリーでも、最後に二人が歩けば納得しちゃう。
見方を変えると、スターはスター。凡人は凡人という遺伝子或いは生き物としての存在そのものの話になる。
同じ事を言っても叩かれる人と称賛される人がいるソレも同じ。「アンタが言うと腹が立つが、あの人が言うとそうなのかなと思う」的な。終いには「生理的に受け付けない」と拒絶される人もいる。立っているだけで嫌われるとか。残念ながら。
僕のお芝居は多分ほとんどどこかの盗作ですよ。
「これを真似したらウケるな」というセンスの良さもまた才能であり、凡人はそこはあまり重要じゃないというところにいつまでもひっかかっていて、空気が読めず、タイミングが悪く、全体的に冷たい風にさらされる人が多い。或いは捉え方自体がズレていることもよくある。
結局は遺伝子なのかなと私は思う。
遺伝か努力かは、必ずしもどちらか一方ではない。優れた遺伝子を持つ人が努力をするとこの世のモノとは思えないレベルに到達する。
ロシアのフィギュアスケートや新体操選手、バレリーナなどは素材もいいし、才能もあるし、努力もする。そしてなぜかほとんどの場合美しい。
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