ワクチンから急に「自分で考え自分で決めて」な日本。

 ワクチン接種に関して、努力義務とはしているものの日本社会としては珍しく「自分で考え自分で決めて」というスタンスを採っている。社会全体が。「差別を生まないように」と接種しない側への配慮までされている。

 この徹底ぶりが(人ごとながら)不安になる。

 反対に普段は自己責任・個人主義なアメリカでワクチン拒否者を解雇(裁判でも勝利)と言うケースもあり、ニューヨーク州ではワクチン接種を義務化の検討、米主要企業のCEOはワクチン接種の義務化に前向きという報道が出ている。私からすれば社会的責任として当たり前だが。

 日本と欧米の思考の順番が正反対を向いている。

 ※上記記事はもっともなことを言っているので何も不満はなく、「ワクチン接種は自分自身で決めるもの」という流れのサンプル。

 「自分で決断」「自己責任」が文化的に普及(?)している欧米社会ならワカルんだが(例えば健康保険の加入さえ自己判断とか。すなわち事故るか事故らないか、病気になるかならないかのギャンブル。日本は「全員入っておいた方がいいよ」→強制加入)、過去ずっと日本は“底”を引っ張り上げる(言い換えるとおせっかい)文化できたので、この急な転換にちょっとばかり違和感がある。

 この「違和感」とは、反対(アンチ)という意味ではなく、今までになかったなという感覚。

 「底を引っ張り上げる文化」とは、落ちこぼれを生まないよう皆手を繋いで足並み揃えて前進する日本人ならではの(農耕民族的な)精神性。見方を変えると(狩猟民族的な)天才・秀才にとってはじれったく、何でも平均化されやすい。能力差とか何も考えず「皆大学に行きましょう」のような。それでも「決められたことを皆で行う」のが日本(だった)。

 ※農耕民族は、コメだけ実ってもしょうがなく、野菜も魚も皆の収穫によって1つになる(脱落者を産んではいけない)社会構造であり、一方狩猟民族は、能力のある者は獲物を獲り子孫を沢山残し(すなわち古典的に言えば男は多くの女を得る)、弱い者は飢えるか狩りに失敗して死ぬかだから「個」の才能が全て。

 親の代から当たり前に打っていてなおかつ「小学校で一斉に打つもの」なら考えもしないんだろうが、突然未知のウイルスによってパンデミックが起き、そこで「ワクチンを打つか打たないかは自分で決めて」は日本人には酷な気がする。ましてや「リテラシー」に委ねるとなると。ほとんどの人は免疫系やワクチンそのものの知識がないから。

//「リテラシー」任せだと、知能・知識で人生が決定するんだが、日本人が受け入れられるんだろうか。

 これまでの日本社会なら、ワクチンを打った方がデメリットよりもメリットが上回ることを繰り返し繰り返し説明していただろう。政治家やメディアだけでなく、親も先輩も上司も先生も。

 それが急になくなった感じ。

 「自分の主義・主張を強要してはいけない」が浸透した結果だとは思いつつ、「おせっかい」がもたらしていた良い部分も失われているように思う。

 知識(判定の根拠)と思考力(判定能力)、情報収集能力がないと(=リテラシーが低いと)「マイクロチップを埋め込まれ5G接続され監視される」なんてトンデモ論を信じてしまう。ワカル人からすればいわゆる「テレビの見過ぎ」で片付けられるようなレベルの馬鹿げた話なんだが、機械に弱い人はそれが可能・不可能かが判定できないし、接種しない側は(自分の主張を裏付けるためにも)「接種しない方がいい理由」を探すので、検索すればするほど陰謀論・トンデモ論に飲み込まれていく。いわゆる確証バイアス(思考の変質性の始まり)。

 ※この知識格差の問題は、私が昔から言うデジタル化・複雑化が進めば進むほど、そのうち裁判官や弁護士でさえ事件として扱われている事象(サイバー犯罪)が技術的に可能なのか不可能なのかの判定もできなくなるという知識(或いは知能)格差に対する懸念と似ている。

 仮に注射器の針を通るマイクロチップがワクチンと一緒に肩の筋肉に打ち込まれたとして、そこから5G(ドコモ、au、ソフトバンクなど)のアンテナに接続するだけの電波を送受信するための電源をどこから取るのかと考えたら、ドラえもんとかアラレちゃんのようなロボットでない限り現時点で不可能。

 もしそんなことができたらビル・ゲイツどころではない富を築いただろうし、iPhoneやノートパソコンのサイズはとうの昔に半分以下になっていて、「バッテリーの持ち」なんて誰も悩む必要がなかった。

ということはできないということ。あれだけ何かと「利権」を持ち出す人が多いというのに、ソコには頭が及ばないらしい。

 車や電車で移動中、マイクロチップが次々と基地局(接続先)を切り替えたため消費電力が大きく、「何か今日は妙にお腹空くなー」なんてことが起きると考えているんだろうか。

と問えば、今「地球は丸くなく平面だ」とか進化論を否定するどこかの陰謀論者や教養のない人達と同じ。

 デジタル・機械社会における教養偏差値50(普通)以下どころじゃない。

 が、それらを論理的かつ社会的に理解するには、知識と思考力、そして情報収集能力が必要とされる。そこで突然「自分で考えて自分で決めて」「個々のリテラシーが問われる」は、もう日本社会は社会的(知性も含む)弱者から手を離したということなのか。

 政府が「ワクチン打った方がいいよ」と言うと、お決まりの利権絡みの陰謀論が出てくるので「自分で決めて」とした方が楽なのは確か。自分で選んだものに文句言えないから。

 しかしこれまでの日本社会はそれでも敢えて「あなたが失敗しないように」というおせっかいな“ヒント”を刷り込み続ける文化だった。

 これは実は非常に根の深い話であり、順を追ってみていくと、今「ワクチンと共に5Gチップが」を信じる人は、この時代に適応するためのIT知識がなく、この先どちらにせよ厳しい。「だからその層へコストをかけない(=時間を食うおせっかいはやめた)」という選択をしたのであれば、もう「見捨てた」と同義。パンデミック下で単純労働者ほど厳しく、もはや助けようがない、後は自分でという(混乱時の)暗黙の掟なのか。要はかまってあげる余裕がなくなったのか。

 もちろん見捨てられた側は自分が間違った選択をしている気がないので「余計なお世話」と思うだろう話だが、急に社会が希薄になった気がし、違和感を感じずにはいられない。

 もちろん上位層は楽。「自分で考えて自分で決めてね」「私はあなたに何も干渉しませんからね」と言っておけば良いのだから。

 が、そこで矛盾するのは累進課税はおせっかい文化。強い者が扶養するという考え方。だったらこれも「自分の分は自分で払い、自分で決める」に変更したらイイんじゃないか。海外で多い健康保険の選択制のように。

 しかしそこまでは自立していないし成熟もしていない。日本社会は。だからこのちぐはぐなアンバランスな世相に不安を感じる。

 これ(この投稿、考え方)自体も余計なお世話なんだが、「そんなブログ書いてないで、葉巻吸ってブランデーでも飲んで寝てろオッサン」と言われたら確かにソレがいちばんイイ。

 というわけでこの数年、徐々に“おせっかい”をやめつつある自分にもどこか違和感がある。