『突拍子もナイこととは。イノベーターと非常識』と重複するところもあるが、否定的同一性についての考察。
イノベーションとは既存のものをぶっ壊す必要はないし、ぶっ壊したからイノベーターなわけでもない。昔のロックバンドが皆イノベーターだったかというとそうではないように(笑)。
破壊せずに共存・分岐するイノベーションもあるし、流れに沿って=型通り・教科書通りだがあまりにも秀逸で結果をもってイノベーションと見なされるものもある。
例えばある情報端末は発想自体は必然的なものだが売れ行きが良く、スケールメリットによってコストが下がったことで画期的な価格設定を行ったところますます売れた。その結果「国民1人1台」を実現し、当該国におけるデジタル時代の歴史的転換点となった。というケースも「革新」と言うよりは「自然な進化」だが、後に振り返ってみると「時代を変えた」イノベーションとして捉えられる。
一方で、真のイノベーターになれない2流または自称イノベーターは執拗に破壊に拘る傾向がある。
なぜだろうか。
いわゆる「良い子」としての期待に応えられない場合は、悪い子側をモデルにする方が楽。
という選択をする人が一定数いる。暴走族の方が手っ取り早く目立つといった短絡的な選択。
多くの場合「良い子」側に居場所がないことに起因する。心のどこかで周囲の期待に応えられないコンプレックスがあり、ついには「良い子にしてても革新は生まれない」(世の中が悪とする側に真があるという錯覚)と言い出すことが多く(内面的にはすっぱい葡萄と化する)、既存のものをとにかくぶっ壊すことに明け暮れる。
これは「はぐれ者」をはぐれ者たらしめる基準である正統派、本流を破壊し、比較対象そのものを抹消しようという考え方。
中高生では非行として表出し、その代表例が妨害や破壊行為。
試験を妨害すれば比較基準となる平均点も偏差値も出ない的な。
否定的同一性とは、漸成的発達理論(エリクソン)で言うところの5/8段階目で、青年期(青年期=13-22才)に獲得することが期待される自我同一性の拡散(≒不安定)という位置づけであり、一昔・二昔前にアダルトチルドレンという言葉が流行ったが、ソレも含め広義での発達障害と言っていいかもしれないもの。
本人に自覚はなくても潜在的な例として、同僚が上司の愚痴を言い始めた時に、自分自身は尊敬していて好きであるにも関わらず「だよねー」と一緒になって愚痴ってしまう人が多い。
自我(またはポジション)が確立されていないため、自らのポリシーよりも周囲に流されてしまいつつ、自分は決して優等生(≒体制)側についてないよアピールがそこにある。
同僚に対しては「あなたの味方よ」という意思表示だが、“あなた”が優等生側でない前提にあり(笑)、ヒトの潜在意識の表出とは時として残酷なものでもある。鈍感な人は気付かずに済んでいるだけ。
心のどこかで正統派であることの恥ずかしさを持っている人は思いの外多く、アンチの方がカッコイイという思春期のノリを引きずったまま大人になってしまった人がゴマンといる。これを「学生気分が抜けきれない」と表現する大人も多いが、もっと根が深い。
この境界が危うくなると、いわゆる「チクる」(或いは「仲間を売る」)ことと「報告する」(職務としての義務)ことの区別が付かなくなり、職業倫理や道徳観念が揺らいでしまい責任感を問われることになる。実際にそういう大人が多い。
所属する組織・会社を良くしたいのか、それともただ仲間と群れたいだけなのか。
これらの傾向は、大凡社会的偏差値(学力ではなく社会人としての)60を境に分かれる。偏差値上位者はいずれ自らが管理職に就く人生設計の中生きているため、上位者を理解することが予習となるが、一方60未満は根は真面目であっても、優等生(または出世コース)側に所属し続けられる自信のなさから、アンチ側に属していた方が(多い方の味方をしておいた方が)今後のためという生存本能も見え隠れする。
キャズム理論で言うところの、アーリーアダプターとアーリーマジョリティーの溝も近しい。大凡上位16%付近で社会は分断されていると言っても過言ではない。
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また田舎育ちにもこの傾向が出やすい。こっぱずかしいという心理。ちょっと悪ぶっている方がしっくりくるというまさしく思春期のノリ。他人の目を気にしすぎて自我が確立できていないことに起因する。都会での孤独感が引き金となり、群れると非行集団と化したり、多元的無知が加わって全くもって軌道修正の利かない集団と化しやすい。
政治家などに対しても同じで、「総理は勇敢な決断をした」などと褒め称えることがどこか恥ずかしいと感じる気持ちがあれば、少なからずその傾向があると言える。
相手が誰だろうと良いものは良い。悪いものは悪い。まずは自我を確立することではじめて他者を正当に評価することができるようになる。自我が確立されていないとほとんどの場合は自己愛すなわちナルシシズムに終始し、ますます他者とのコミュニケーションが危うくなる。
意味も無く毛嫌いしているものがあれば、自我が危ういまたは自我を揺るがすほど大きな存在であり、それに対する恐れ(=自分が否定されているかのような感覚)から生じているのではないかと自己点検することで、自らが何に不安を持っているのかが見えてくる。
ということを書いたことがなかった気がしたので書いてみた。
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