イギリスは再び感染者が2万人を超えた07月上旬(人口は日本の半分)、ジョンソン首相がコロナ感染対策ルールのほぼ全廃を発表した。
真の自由とは、死ぬことも自由であるという“解放”であることは言うまでもないが、それを未だ実現している国がない中で、オックスフォード的哲学でその領域に到達しようとしている印象がある。イギリスは。
ヒトとは思考の成熟度、すなわち思考の段階がある。
例えばフェミニズムについて議論する人達は次のようなステップを踏む。
(1) 男女平等な社会に。賃金や出世の機会を平等に。
(2) 同じ給料で、何で男だけが重い荷物を運ぶ仕事をするのか。女も力仕事をすべきだ。
(3) 女も力仕事をするのに、何でデートの時男がドアを開けてあげたり、椅子を引いてあげたりするのか。「レディーファースト」の廃止。
(4) 男に媚びる女がいるからいつまでも差別がなくならないのだ。ミスユニバースや水着、下着ショーは女性蔑視だ。廃止すべきだ。
(5) 男女ともに自分のことは全て自分ですべきだ。女が男にデート代を出してもらうのはおかしい。折半できるお店にしか入らないし、自分の給与に見合わない高いワインも注文しない。
(6) 家計は全て折半。男が買った家に住むのはおかしい。家賃を払うべきだ。
(7) 一部の男社会で、少ない女のために部屋、風呂、更衣室、トイレを用意するのは待遇差別だ。全部一緒でいい。
という具合。(7)は実際に北欧の軍隊で統一されている。この理屈から言えば、日本の女性電車の専用車両は差別ということになる。
そして行くところまで行った議論の結末とは、「女が男に媚びるのも自由だ」(本人の勝手)となり、上司に気に入られるためにミニスカート+ヒールをはこうとそれも自由であり、(4)でなぜ女性の権利を奪ったのかということに立ち戻る。
結局のところ、「誰も私の決断にケチをつけないでくれ」が最終形であり、美貌を売ろうと性を売ろうと全ては本人の決断であり、それで稼ぐ権利も奪わないでくれというのが「尊重」でもある。
ヴィクトリア・シークレットのスーパーモデル達は、時代に合わせてショーを廃止し、年収何十億を捨てる必要はなかった。というより、それを奪った人達は思考が未熟だったということに帰結する。自由とは誰かの主張の影響を受けるべきではない。
思考の成熟度はヒトによって当然に異なるし、成熟のスピードも違う。だから進んでいく人達から見れば、いずれそうでない人を待たなきゃいけない理由はなんなのかということになる。
「待つ」というのは、他人に足を引っ張られている状態だから。すなわち足かせ。
現在のパンデミックに話を戻すと、ワクチンを打ち終わった人から見れば、未接種者の新規感染者数を基準に緊急事態宣言やロックダウンを決定してもらいたくない。
よって(イギリスの場合)全員が無料で接種できる機会・期間が十分に与えられたのだから、現時点で接種していない人は本人の決断と見なそうということで全解放する(した)。
すなわちここから先は「死ぬのも自由」という領域。
「いや病院があるんだから治療してもらわないと困る」と言っても、それは病院が混んでなければの話。需要と供給のバランスの中で我々は生きているので、需要(感染者)が多い場合は順番待ちになるし、民間の病院の場合は資本主義経済の基本原則に則って言えばお金を払った者が優先権を得る。
これは保険に入るか入らないかの賭けと同じで、事故らない人や病気にならない人は保険に入らない方が可処分所得が増える。しかし人生とはほとんどの人が思い描いたものとは異なる道を歩むものであり、「しまった入っておけば良かった」となることが多い。
死にかけた状態で「ワクチン打ってください」と同じ。そもそもワクチンは予防のためのものであり、治療するためのものじゃないし、免疫ができるまでの間、生命が持たない。
そういう人達を基準に、「まだ集団免疫を獲得してないから」とか「未接種者を中心に感染が拡大しているから」として緊急事態宣言やロックダウンを決定してしまうと、それによって経済の回復が遅れ経済死する人達が増える。
だからある程度の期間を過ぎたら「ここら先は皆元通り自由だ。死にたければ死ね、生きたければ生きよ」ということだろう。イギリスの政策指針は。
社会には時間制限がある。時間とはコストであり、コストはそれを支える財源がなければ成立しない。財源とは言うまでもなく税収であり、経済を再生しなければ税収は減る一方なので、(社会保障)コストとなる未接種者の感染拡大のために緊急事態宣言やロックダウンをしていたら本末転倒ということになる。
マイケル・サンデルあたりが取りあげたら面白そうなテーマだが、これからの社会の教科書も少しづつ変わっていくんじゃなかろうか(期待を含め)。
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