努力で何とかなるのはある程度まで。
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成果とは正と負がセットなので、成功すれば努力の賜、失敗すれば努力不足。
ある程度まではソレでイイ。しかし高望みすると自分に負担をかけることになる。
例えばコンサートピアニストのようにピアノを弾きたいとか。スーパーモデルのように美しく歩きたいとか。
このクラスになると生物学的・物理的な限界が生じ、精神論は通用しない。考え方を「遺伝」に切り替えた方がいい。達成できない=努力不足として自分を責めるには荷が重いから。
全てを努力の結果としてしまうとどうなるか。
コロナウイルスで仕事が減り収入が減ったのは君の日頃の努力(勉強)不足が原因だ。
とか。突き詰めていくと、その仕事を選んだ日、またはその仕事を選ぶことになった人生全体を指し、努力不足が招いた結果だということになる。
世界中があんなにスティーブ・ジョブズの講演を聴き入っている(いた)というのに、君の話を誰も聞こうとしないのは君の努力不足が原因だ。
とか。「そんなこと言われても」だろう。魅力がないのも努力不足ということになる。
オンラインIQテストの結果をどうしても「賢さ」と結びつけたい人には、
そんなにIQが高いのに成功していないのは君の努力不足が原因だ。
とか。IQが高いかもしれないことで明かりがさしたかにように思えたのもつかの間、結果(実体)が伴わないと努力不足を責められることになる。
努力の成果説は、人並み以上にうまくいかないと割と惨い。
一方、遺伝派は簡単だ。上手く行けば「そういう遺伝子だから」だし、失敗すれば「親のせいだ。しょうがない」(笑)の他言いようがない。
ということから、神童・天才・秀才が遺伝型(先天性)か努力型(後天性)は日頃の会話で解る。
生粋の神童・天才は、戦略的に大衆ウケを狙わない限り遺伝説を説くだろう。自分が大した努力もせずにここまで来たことを本人がイチバン知っているから、そもそも努力の成果だと思える材料を持っていない。
一方努力型の天才・秀才は、自分がどれだけ努力したか、他人の何倍も勉強・練習したかを本人がイチバン良く知っているので、遺伝(親からもらったもの)で片付けたくないという心理が働き、「努力の成果」を説く(だろう)。
前稿にもつながるが、実際には遺伝的な才能も、涙ぐましい努力も、時代との適合性が重要。
例えば新型コロナウイルスの流行によって、人の身体に触れるサービス業の将来性が大きく揺らいだ。人がたくさん集まる業種も同じく。
遺伝的な才能とか後天的な努力とは無関係に時代は移り変わる。
よって時代(社会)あっての個人だと言え、「全体とは部分の総和以上の何かである」(ホーリズム)と言える。
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