天才というキャラクター。不公平という心理。

 という記事を読んだ。

 わかりやすく差別化されたテレビ(とか映画とか)のキャラクター設定を真に受ける人が多い。

 天才は人の気持ちがわからないとか、空気が読めないとか、お世辞や皮肉を理解できないとか、世間話や社交辞令がまるでダメというキャラクターで描かれることが多かったが(これからも大して変わらないだろう)、それは脳の特定の機能性(例えば発達障害であるとか、微表情が読み取れないから相手の機嫌がワカラナイ≒空気が読めないとか)のうち、一般人が見て「普通じゃない」と感じたものをミックスして作り上げた姿であり、天才の特徴ではない

 ※ちなみに遺伝子検査には「嫌悪の表情の認識力」もある

 これらは「何かに秀でた人は必ず何かが欠落している」と考えることで公平性を保とうと(相殺しようと)する宗教的な(ヒトは生まれながらにして“同じ”であるという)考え方・心理の現れだと言える。

 ※優れたものを持っていない=自分は不利だ、遺伝なんて不公平だという人の心理。

 賢く社交的な人は、当然に賢く社交的な人が集まる場所に出入りする。例えばイギリス発祥の高知能団体メンサの始まりは、

イギリス人科学者で弁護士でもあるランス・ウェアと、オーストラリア人弁護士のローランド・ベリルによって、1946年10月1日にイギリスのオックスフォードで設立された。当初は「高IQクラブ」という名称で、目的も高すぎるIQの為に男性が近づいてこないランス・ウェアの妹のため作られた「合コンパーティー」のような物であった。---Wikipedia

とある。

 パーティーを開く時点でひきこもりではなく、いかにも文系(弁護士)的。人と接することを前提とした職についているのだから人嫌いなはずもない。もしこれがIT系のオタクならそういう発想にはならなかった(妹の心配よりも自分の心配が先)だろうことから、IQが高いことと、コミュニケーション能力の低さや対人問題は本来何も関係ない。

 ※ただしメンサが有名になった後、その肩書き欲しさ(足りないものを補うため)に入っただけのアーリーマジョリティ以降の人達には必ずしもあてはまらない。

 ※この例ならば、世間的にはIT系のオタク側を高いIQの代表例にしたがる傾向がある。

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スティーブ・ジョブズにおいては、他人を罵りながらも愛されるという高度な技術(笑)を持ち合わせていた。恐らくは突出した“駆け引き”の能力(すなわち相場観)によるものだろう。一般人の「EQ」の理解を危うくさせる要因の1つと言える。
*/

 最近読んだ心理学の資料では「発達障害だから高い知能や能力を持ち合わせているわけではない」(特殊な能力(≒サヴァン症候群)を持ち合わせているのは一部の人だけ)とあり、これも同様に何ら●●=▲▲という図式は成立しないこと意味する。

 日本では「高い知能」とセットで発達障害と精神疾患(例えば強迫性障害とか)というキーワードが登場することが多い。

 しかしイコールで結ばれるのはごく一部。ベン図にするとわかりやすい。

 

 見ての通り、たった3つの要素の組み合わせであっても、

 高知能∩発達障害∩精神疾患
 高知能∩発達障害
 高知能∩精神疾患
 発達障害∩精神疾患
 高知能 
 発達障害
 精神疾患

の7種ある。3/7は高知能と結びついていない。「∩」は“かつ”(and)。

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ではなぜ日本の高知能というテーマにおいて高い確率で精神疾患や発達障害がセットで登場するのかといえば、知能検査自体が病院で受けるものだから。受けるというより受けされられた人がほとんどだろう。偶発的に知能が高いことが判明した的な。だからそもそも病院にいた理由が漏れなくついてくる。私みたいな趣味かつ自費で受ける人が同等数に達しない限り、この傾向・比率は変わらない。
*/

 テレビの天才キャラは、視聴者の圧倒的大多数を占める普通の人達から見て「えぇ〜っ!?」の結晶みたいな設定(ベン図の中央)。なぜか決まって「非常識」もついてくる(笑)。

 なおかつバイオリンの魔神とか(笑)、アマデウス(笑)とか、特定の能力だけが突出して秀でていて、社会性を身につけないまま育った子供みたいな大人(*A)という設定も多い。世界的に。

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 (*A)これについては一定の理由がある。子供の頃から優れた才能を発揮すると、親の期待が膨らみすぎ、ソレに専念させその道に進ませようと躍起になるあまり他が疎かになるという構造下にある。特に貧しい家系ほど確実にモノにしたいためその傾向が強く出る。

*/

 世間はそうやって「可哀想なキャラ」にしたてあげることで、人間の能力差を相殺し「やっぱり普通がイチバンだよね」と持ち込む流れが出来ている。

 ※そこで天才=努力説が入り込むことで一定の安定性を得る。努力の結果は不公平でも何でもないという考え方。言い換えると、上手く行かない=努力不足ということでもあるんだが。

 または自分の持つ問題を、天才・秀才の必要条件としたがる人達も一定数いる。例えば「天才=枠にはまらない」ことから常識のなさを正当化するとか。常識がないから天才なわけではない(笑)。ベン図の通り「ただ単に常識がない」人もいるということ。

 更にはほとんどの場合儲かってない(世間から受け入れられない、評価されていない)キャラとして描かれることからも、能力差(遺伝)を不公平だと考えている人達が多く「●●を与えられた代わりに▲▲を失った」と決定付けたいことが見てとれる。

 ※アメリカのドラマ『スコーピオン』あたりからは「儲かってない」の設定が除外され、少しづつ認識が変わってきている様子もある。

 一方で「繁栄した家系」が描かれる時、パーティーシーンがないことの方が少ない(ナイに等しい)。すなわち富と頭脳(敢えて知能と言わず)と社交性がセットだったと考えられる。少なくともこれまでは。

 なぜ「頭脳」であって「知能」と結びつけられていないかというと、前述の通り、社交的かつ事業で成功している人達は、病院に行く理由がないため知能を測ったことがないだけだと考えられる。

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 「社交的∩事業で成功する人」と書いてみたが、古典的な事業とは多くの人を雇用し、多くの取引先を抱えることが“普通”だったため、コミュニケーション能力も当たり前に必要だったことから必然的なもの。人嫌いでは商売は難しいし、喋りが下手ではプレゼンテーションも商談も上手く行かない。

*/

 よって過去の成功者達は、富と知能と社交性がセットだった可能性が高い。
 ※オンラインの時代、特にパンデミック後は大きく変わるだろう。

 という点が表から隠れた部分

 だから知能の研究とは、本来成功者達を集めて知能検査を受けてもらう必要がある。成功するために必要な思考力とはどんなものなのかが確定した後に検査項目を調整するという手順の方が理に適っている。と私は思う。

 問題は成功者の思考傾向が解ったとしても、試験問題になった時点で過去の傾向を測定しているに過ぎない点。間違いなく沢山の共通点が見いだされるだろうとは思うが、製造業のように頭数が必要な業種及びそれが当たり前だった時代と、オンラインで多くのことが完結し、究極的には従業員は不要という時代に必要とされる思考力は恐らく異なる。

 というわけで、もしまとめるなら、宗教(精神)と科学(遺伝)と言ってもいいんじゃなかろうか。