「子供の知能をほめると成績が下がる驚くべき理由 | 子育て | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース」

 記事タイトルの「知能を褒めると」と言うより、内容としては知能に限らず生得的な能力を褒めるか、後天的な努力を褒めるかという話。

 幼少期にあまり生得的な才能を褒め過ぎると、「ボク・ワタシはこんなに頑張ってるのに」と大人(ほとんどの場合親と先生)が自分をちゃんと見てくれていないような淋しい気持ちになる。本人の性格によっては、自分に目を向けさせるためにわざとでも落ちこぼれて見せる子もいるだろう。

 要は愛が必要な時期

 が、本当に才能があれば、小学校も高学年になると、それが才能による結果か、努力がもたらした結果かは本人がイチバンよくわかるので、才能に対し「やればできる」みたいな褒め方をされるとイラッとくるようになり、そのうち「どうせこの違いがワカラナイだろう」と大人を試すようなことをしだしたりする。そして何でもかんでも「がんばったねー」と一緒くたに褒める大人に嫌気がさす。

 この実験は一般的な「褒め方論」としてはわかりやすく見事なまでに傾向を導き出しているが、もっと根本的な「教育」「子育て」という角度で見ると、「誰にどうやって褒めるか」を問うてない点に問題がある。

 「誰にどうやって」とは、すなわち知能が高くもない子供に対し、テストの成績が良かったからといって知能を褒めると、例えば「実はこの問題、一昨日参考書で見たばっかりだったんだよね」という具合に、知能の高さによる結果ではないことを本人がイチバン良く知っているため、むしろ「ちょっといい成績をとるだけでこんなに褒められるのか」と味をしめ、確実に良い点がとれる道を選ぶようになる。そして「偽ベートーベン」(笑)のようなペテンを産む。

 それが下記。

最初のテストを終えてから、生徒たちには難易度の高いテストか低いテストを受ける選択肢が与えられた。知能をほめられた生徒たちのまるまる3分の2が簡単な課題を選んだ。むずかしいテストで失敗する可能性を負って「頭が良い」レッテルを失う危険をおかしたくなかったのだ。

 その2/3は、良い点をとったらまるで天才かのように褒められるから、他に褒めてもらえる機会がない子供ほどまた良い点が欲しく簡単な問題を選ぶと考えられる。残りの1/3は生得的に賢く、難しい問題でも良い点をとれる自信があったんだろう。その精神的余裕が凡人と非凡人の違い。非凡人は、本当に大した努力をしていないことを自分がイチバン良くわかっているから余裕がある。

 一方、

努力をほめられた生徒たちの90パーセントはむずかしいテストを選んだ。成功ではなく、実りある挑戦の可能性追求に関心があったからだ。この生徒たちは、自分がどれだけがんばれるか示したかったのだ。

は極めて単純な理由がある。「大人は努力を評価する」とわかれば(評価基準の理解)、努力をしないと褒めてもらえないからできるだけスゴいことをしてみせようとする。結果、どっちがスゴいか競争となり、心理としては、子供の「見てみて!もっと高いところからジャンプできるよ!」と親や大人達に見せたがるソレと同じ。

 そして「挑戦することに意義がある」という空気感の中では、結果はどうであれ、挑戦しさえすれば良いということになり、簡単な問題よりも難しい問題を選ぶ方が「頑張ってる」と見なされることを理解した上で、難しい問題を選ぶようになる。そのまま背伸びした高校・大学を受験してしまい、“結果”が全てだと思い知らされる。

 結局のところ子供は「褒めてもらうためにはどうすれば良いか」で行動すると言える。いわゆる子供時代の承認欲求という問題。

 しかし親や大人達に構ってもらえないなど、十分な愛情が注がれず、その自己顕示欲の“初まり”がうまく完結しないまま大人になると、社会人になって一部始終を褒めてくれないと「正当に評価してもらえない」「結果がばかり見て過程を評価してもらえない」と転職を繰り返すことになる。

 上司はずっと見てられるわけじゃないし、ずっと見ててあげるには、ヒト1人拘束する分の人件費以上の成果を上げる必要がある。いわゆるコストの問題。

 が、そんなことよりも自分を優先する大人とは、自己顕示欲と自己愛、そして承認欲求のバランスが崩れていると言える。いわゆるナルシシズム。

 だから愛が必要な幼少期に愛情を注いであげないと、大人になってから高コストなかまってちゃんに周囲が疲弊することになる。当然大人社会では「高コスト」は排除されるので、本人はますます病みやすい。

知能をほめられた生徒たちは、自分が失敗したのは結局のところ問題を解くのが得意でない証拠だととらえてしまった。努力をほめられたグループは、テストにずっと長く取り組んだし、それをはるかに楽しみ、少しも自信を失わなかった。

 これは実際にそうだろう。だから知能が高い“つもり”は止めた方がいい。社会に出て挫折するから。一方、努力を褒めたらそれが評価基準なんだから努力してみせるようになる。そして、意味もなくダラダラと時間をかけ生産性の低い大人になったりする。一般的に、外国人から見た日本人(笑)。早く終わらせて帰ったらいいのに、時間まで仕事してるフリをしやり過ごす。そこでサクサクと仕事を終わらせる人が出てくると、自分の能力が低く見えてしまうので鬱陶しがる。当然に生産性が低いので給与が上がらない。という組織になる社会構造にある。日本は。

 というわけで、この実験は「どう褒めるかでどういう結果になるか」は十分過ぎるほどの傾向を示しているが、「誰をどう褒めるか」は全く考慮されていないので、「称賛すべきは努力であって、才能ではないこと。能力が努力によって大きく変えられることを強調すべきだということ」が常に当てはまるわけではなく、尻を叩かなきゃだめな人の尻は叩き、努力が正しい形で行われている場合はそれを褒め、そして本当に才能に恵まれた子供には、それ相応の褒め方をすべきだと私は主張したい。

 才能や知能とは、判定する側の能力も問われるので難しい。その点、目に見える「美貌」に置き換えて考えると分かりやすい。

 美貌は努力によってもたらさえるものではないが、美人に向かって「よく頑張ったわね」「毎日毎日お疲れさま。大変でしょう」とか、まるで毎日鏡に向かって必死で頑張った成果として自分の美しい顔が存在するかのように褒め続けると、恐らく本人は高い確率で鬱になる(笑)。

 一方、メイクや髪型は手間暇かけるという点で努力。ファッションも。平均以上のセンスがあればそれは才能だろう。

 「痩せてる・太ってる」も、名門バレエ団が親の体型を見るように、遺伝的な体質・体型である程度決まるが、日頃から食生活に気をつけていればそれは努力だし、年齢に逆らって体型維持している場合も努力によるもの。言うまでもなくトレーニングで理想的な体型を創り上げていればそれも努力によるもの。

 が、そこで遺伝的な体質・体型などを無視して「体型は努力によるもの」と決定付けてしまうと、太っている子供は努力が足りないということになる。「足が短いのは努力が足りないからだ」と言われても困る。

 同じように「美貌は努力によるもの」としてしまうと、どんなに頑張っても、すっぴんで並んだら雲泥の差があり、そこで努力が足りないから自分はこんな顔なんだと勘違いさせるのはあまりにも残酷。

 よって生得的なものか後天的なものかの見極めが重要であり、見極める側の才能が問われるところ。何でもかんでも努力として褒めたらイイわけじゃない。