突拍子もナイこととは。イノベーターと非常識。

 「突拍子もナイことを言うんで、ボクは」と得意気に語る人がいる。ほとんど男性。発想力豊かであり凡人とは違うという主張っぽい。

 正規分布に沿って、「突拍子もナイ」の基準を全体の上下2.275%(すなわち偏差値70以上か30以下)とすると、「突拍子もナイ」と認定された時点で、50%の確率でただのアホかもしれないリスクがある(笑)。「逆に」を連発するものの特に逆でもなく脱線しているだけの人も多い。相手に沿わないことがモットー的な。

 「型にはまらない」も同じ。革新的な人なのかただの非常識か。型とは何のためにあるのかワカラナイ人とか。多くの人がルーチンワークに就いているため、その決まった作業を無駄なく円滑に合理的に進めるために型がある。業務内容が頭脳労働でない限り、型にはまった方が生産性が高いことの方が多く、「型」の存在理由とその価値を理解する必要がある。そういう場にイチイチ議論を持ち込むと生産性を下げる要因(コスト)となる。

 「出る杭は打たれる」も。優秀すぎて“上”が面子を保つために“打って”いるのか(芽を摘んでいるのか)、当人の行動や言動に問題がありただ単に注意されているだけなのか。本人が自分の問題を自覚していないと、言うことを聞くべき注意や助言の判別ができない。被害妄想の強い人もその傾向がある。

 一応正規分布に沿って「半分の確率で」と書いてみたが、私の周りではかつてこれらの言葉を発した人で優秀だった人、出世した人がいない。

 恐らく「人とは違う」ことを意識しすぎて、人にできることができない人になってしまうことが原因じゃないかと思っている。そもそもそういう人だから人とは違う路線を行くしかないのか、どっちが先かワカラナイが。

 皆が黒い画面にコマンドを打ち込んでいる時に「GUIとマウス」を発案する人は間違いなくイノベーターだが、iPodの後にiPhoneやiPadが出てくる流れ自体はイノベーションというわけではなく(細かい技術にイノベーションはあっても)、極めて高い水準の型通りの仕事と言える。型破りではなく型通り。

 2000年初頭には携帯電話にカメラが付き、画質の向上と共にわざわざデジタルカメラを買う人はいなくなった。

 同じように2000年以前から、アップルのニュートンやPalmといったPDA端末が存在し、画面をペンでタップして操作する仕様だった。PDAはその後電話と統合された。

 同様に、iPod以前にMP3プレーヤーがとても良く売れていた。そのMP3プレーヤーの前に“ウォークマン”が存在し、フラッシュストレージの低価格・大容量化とともに電話と統合された。

 タッチパネルとは何十年も前から銀行のATMなどで使われている。

 それらの全部入り版がスマートフォンであり、スマートフォンから電話機能を省いて大画面化したのがタブレット端末であるように、多くの場合量産効果に沿って統合されている。要は安くなったし部品も小さくなったから統合しても値段や重量(利便性の低下)に跳ね返らない→売れる→じゃぁやるか的な。

 使っている側から見ればイノベーションでも、作っている側からすれば“必然”だろう。

 当たり前の延長に必然が存在し、「型破りな発想」とは正反対の流れ

 実際の社会のレイヤー構造下では、偏差値50のイノベーションは偏差値60にとっての当たり前で、偏差値60のイノベーションは偏差値70にとっての当たり前という具合に、上位が下位を内包して存在している。

 すなわち、上に行けば行くほど世間の多くの“画期的”を当たり前(必然)として捉え、その多くの当たり前を日常的にこなしていると言うことができる。これが前述の極めて高い水準の型通りの仕事

 例えば一昨日書いた「夜の街」を脱税で一掃するという発想なども、言ってる本人達は画期的だと思っているんだろうが、法や制度の理解が乏しいからこそ画期的だと思えるのであって(いわゆるダニング=クルーガー効果)、上位者達は考えつかないから実行しないのではなく、その考え方は有効でないから採択されない=既にゴミ箱行きした“アイディア”だということ。

 しかし発信者側は「政治家は型通りのことしかできない」「突拍子もナイことを言うんで、ボクは」(=柔軟な発想力)と考え、これを会社等で上司から却下されると「出る杭は打たれる」と感じる認知構造ができあがっている。

 またベン図に書いてもいいが(笑)、型破り=優秀ではなく、ただの非常識やアホかもしれない可能性が常にあるということ。

 というわけで、日々淡々と自己水準を高めていくことで多くの型破りを当たり前(常識)化している「超常識的な人達」の方が何かと上手く行き、「取り柄がナイから型破り路線しかない」という人はただの非常識である可能性が極めて高いと私の記憶は語っている。