たとえば、英語と社会だけで受験できる某私立大学があるとする。A君は数学と理科の偏差値は35であるものの、英語と社会の偏差値は70とする。Bさんは数学、理科、英語、社会どの科目の偏差値も65とする。
その大学の受験結果でA君は合格しBさんは不合格になったとすると、その大学は偏差値70の人は合格するものの偏差値65の人は不合格になる“超ハイレベル”な大学ということになる。
このような少科目入試を私立大学文系学部が始めた頃は、1科目を入試必須科目から外すと偏差値は5ポイント上昇することが相場であった。外す対象として最も狙われたのが言うまでもなく数学である。
オンラインIQ業界に似ている(笑)。
お金と引き換えに“見栄え”を購入する的な。需要と供給に柔軟に応える上で当然に民間(私大とか)が受け皿となる。いわゆるコンプレックス産業の一種。
特定の能力が高いことは何も悪くないし、特技があるのはいい。が、「肝心な何か」を取り除いた上であたかも高偏差値(高知能)をうたうのはちょっと違う。
誰かが何が得意だからといって世界のルールは変わらないから。
学力で言えば、数学なしの偏差値はもはや意味をなさないというくらい数学が重要な時代になっていて、心理学部であってもある程度は数学ができないとデータを見誤ってしまい、他人に迷惑をかける。→検査報告書の見立て。
IQも同じで、視覚だけで世の中成り立ってないし、聴覚だけでも成り立ってない。WAIS-IIIまでの呼び方で言えば動作性(視覚)も言語性(聴覚)もどちらも重要。ワーキングメモリーも重要だし処理速度も重要。
実社会で必要とされるそれらの多くを省略して測定した値を「IQ」と呼んでしまうと、ある特定の能力は高いが、挨拶もできなければ人に伝わるような説明もできない、スケジュール管理もできない、人が言ったことを覚えられないというIQ 150、160の天才達が量産されてしまう。
そして最終的に「IQ高くても意味ないよね」とIQではない値を持ってして無価値化し、そこに費やした時間とお金は何だったんだということになる。結局のところ、そこが本来の知能が問われるところなんだが。
特技で自信を持つことによる自己啓発効果は否定しない。が、世の中が必要としているものとは何かを見誤る(または目を背ける)と自己啓発効果で得たもの以上に失うものが大きい。
経済学で言うところの機会費用の視点は常に役に立つ。
アップルシリコンのように、コンピューターの世界では統合型チップが主流になりつつある。行き着くところは「全部入り」であり、それが“自立”(=他人の手を借りない)の究極系でもある。
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