生得的な賢さと環境要因(教育水準)には非常に興味深い関係性がある。
学校で先生がアホなこと(例えば前稿のような)を言った場合、子供が家に帰って「だって先生がこう言ったんだもん」と親に話した際、賢い親の下ではそれが是正され軌道修正される力が働く。そして子供は「考える」性格に育ち、いずれは自分で判断できるようになる。
一方賢くない親の下では「えっ、そうなの!?・・・」となってしまい、子供はますます下に引っ張られることになる。「よくわかんないけど先生がこう言ったし」と誰かが言ったこを鵜呑みにする性格に育つ。
他方、先生が非常に優れた考え方を提示した場合、賢い子供はソレをヒントにますます賢くなる(思考が成熟する)。しかし賢くない子供は「うちの親はそんなこと言ってないし」とアホな方(笑)につく。判定能力がないからより簡単に理解できる方を選ぶ。
黒塗りのベンツと同じ。親の所得が高ければベンツ=ヤクザという思考にはならない。
すなわち、賢い家庭の子は高等教育によって上に引っ張られ、賢くない家庭の子はダメ教育で下に引っ張られやすいと言える。
だから賢くない家庭の子供ほど、例え天井は低くとも良い教育を受ける必要があるんだが、そこにもまた興味深い構造がある。
賢くない親に育てられた子供は「賢さ」を知らないため、賢くなる事に欲求が生じない。また賢くない親は賢くあることによるメリットを知らないため、子を賢くするための高等教育に投資しない。学問よりも「手に職を」とすぐにでもお金になることをさせようとする。
いわゆる短絡的な思考。長い目で見たらどっちが良いかという中長期的な“設計”に頭を使わず(例えば大卒の生涯年収とか)、目の前にあるものを取りに行こうとする。これは「今タダで100円もらいますか?それとも今100円投資して後で300円もらいますか?」という思考の基礎となる。
これらは数学を使わずに済んでいる簡単な職務に就いた大人が「大人になって数学なんて使わないし」と数学を否定するのと同じ。数学ができたらもっと良い職に就きもっと稼ぎも良かっただろう世界を知らないから、子供に数学の重要性を説かない。それどころか時代が変わったというのに「お父さんは数学ができなくてもこうやってお前を立派に育てているだろう?」と説き伏せてみたりする。10年後、20年後もソレで生活ができる程の収入が得られるならいいんだが。
よってワカル人は何もしなくても解り、ワカラナイ人にほど解ってもらうための時間と労力をかける必要があるのは世の常だが(*1)、インターネットによって得られる情報・知識が激増したため賢い側の伸び率が高く、解ってもらうための時間と労力を機械化・自動化の研究開発に充てるようになってしまった(諦め)。
(*1)ワカル人は取扱説明書で解るが、ワカラナイ人は取扱説明書を見ても解らず、カスタマーサポートのフリーダイヤルと人件費をかけても解らない。そのコストがモノ・サービスの単価に跳ね返ってくる。
最近の会社は社員教育にも全く時間を割かず、ちょっと賢い人がインターネット上で得た知識の方があるかに上回っていたりする。当然その情報は当該従業員達もアクセスできるパブリックなものだが、知識欲や情報収集能力に加え真偽の判定能力にも差があり、もはやこの格差を是正する術がなくなりつつある。
というわけで、極めて高い確率で賢さは生得的(生まれた家も含め)なものと言える。
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