2年前にも似たようなことを書いたが、20年前は、(日本人の場合)世間話程度では大卒と非大卒の差をあまり感じることがなかったのが、この10年くらいで違いがはっきりわかるようになってきた。
特にこの数年の20代。
高学歴=頭が良い、低学歴=頭が悪いという話ではなく、あまりにも激しい体験格差が大人になってからの“違い”となって表出している。
という話。
コートの上にジャケットを着せようとする美容師然り。シャンパン=ホスト・ホステス達の「シュワシュワ」でしかないセラピスト然り。
靴べらが何なのか知らない若い女性もいる。父親像が見えてくる。
職に就いても、上司が何も教えない・注意しない時代になり、知らないまま社会に出ると、知らないまま歳をとり、知らなくても済む範囲の人生をおくることになる=選択肢が狭まる。
社会に出る前が重要な時代。
「数学って役に立つの?」と同じで、数学を使わなくて済む人生を選べば確かに役に立つこともないかもしれない。パソコンの操作やプログラミングも同じく。
以前は学歴=学力として捉えられていたものが、学歴=親の所得偏差値色が強くなってきている点がやっかいなところ。欧米と似てきている。
大学に行く・行かないが本人の意志・個性で決まっていた(進路の“選択肢”の1つだった)時代から、自分の考えや意志よりも親の所得で「できること」が大方決まる(決定付けられる)時代への変化を感じる。
突き詰めていけば、より遺伝子色が強いと言っていいだろう。
子を大学にやれる所得の親は所得偏差値が高い=稼ぐ能力が高いので、その子供はその遺伝子を引き継いでいる。反対も然り。
学歴社会にある現代において、学歴を得るために親の所得がモノを言うということは、ある程度入口と出口が見えていることになる。だとすれば遺伝子的、生得的と置き換えることができる。
東大生の親の世帯年収が1,000万円以上(日本にしては高い)が40%という事実が世間に衝撃を与えたことも記憶に新しい。
以前書いた「親ガチャ」という言葉は、若者の心理を巧く言い表していると思う。
子は親を選べない分「アタリ」「ハズレ」と受け止めるしかなく、どこかやるせなさを感じる。
もちろん、一発大逆転的な成功者も存在する。しかしそれは宝くじの当選に賭けるような確率でしか存在せず、一般論としては成立しない。
言うまでもなく大学に行ったから皆が高い収入が得られるかというと必ずしもそうではないんだが、いつ(年齢的に)まで続けられるかワカラナイ若さ(体力)勝負のサービス業・単純労働に就くよりは、大卒→企業勤務の方が平均的に高い賃金と中長期的に安定した収入が得られることから、「人生設計」という長い目で物事を捉える感覚・思考が養われる。
古典的に言えば住宅ローンなどもその1つ。勤務先がショボいとそもそもローンが通らない。
行き当たりばったり、その日暮らしの生活をしていると、自分に直接関係のない話には興味がなくなり、「そんなことより」と目先のものが優先され、利己的になりやすい。
利己的になると「全体」(組織とか社会とか)に対する意識が薄れ、思考も発言も責任感に欠け、人から信用・信頼されなくなるとその分自己肯定感も上がりにくい(または下がる)。
そして群れ(日頃の付き合い)も単一的(似た職種、似た所得層)になりやすく、情報源も思考も偏りやすい。環境的に多様性に乏しい。
それが更に「差」となって表出する。
もちろん20年前も、偏差値70以上の大卒は顔つきでわかったし、喋ったら高学歴なのが伝わってきた。いわゆる「賢そうな顔」をしていた。
が、今は偏差値50程度のいわゆる三流大卒と非大卒でもすぐに違いがわかる。
数年前、あるスパでアロマトリートメントを受けていたら、20代後半の女性セラピストの受け答えがとてもテキパキしていて、語彙もそれなりに豊富だったことから「大卒ですか?」と尋ねたところ「ハイ! 2流大ですが(笑)」と嬉しそうに「わかりますか?」と返ってきた。
いったん企業勤めしたあと、どうしてもアロマの世界に入りたく転職したらしい。
またある店頭販売員の中国人女性スタッフの記憶力があまりにも優れていて、「大卒ですか?」と尋ねたところ「ハイ! 日本の大学を出ました!」と嬉しそうな表情で返ってきた。
「嬉しそう」なのは、本人の中で「他のスタッフとは違う」という自負もあるんだろう。
まさかそこに大卒はいないだろうというサービス業などの現場にいると特に目立つ。
繰り返すが、大卒=頭がイイという話ではない。
※日本の反復丸暗記学習の傾向から、学歴とワーキングメモリー(WAISで言う作動記憶)は一定の相関が見られるだろう。
地頭の良さは学歴でははかれないことは知能のブログに散々書いてきたので省略するとして、環境刺激という観点から見て、大卒・非大卒の差が広がっている。
遺伝学で言えばエピジェネティクスの差につながるかもしれない。
単一民族の群れである日本人はただでさえ考え方や価値観が偏りやすい中、4年間大学という多様性にもまれた人と、地元の身近な数人とだけつるんでいた人との差は大きい。
センパイや上司が何も教えてくれない分、「社会に出て学ぶ」時代ではなくなり、社会に出る前に大方の方向性が決まる時代だなと感じる。
「だから何なの?」と思われたのだとすれば、その漠然とした「何なの?」の領域が、社会を埋め尽くしているダークマターのような存在なのだと表現してみつつ、今回はこの辺で切り上げたい。
関連して次回(そのうち)最近の東京育ち・非東京育ちの差について書いてみる予定。
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