『お金で買える体験』に意味はあるのでしょうか。例えば、山奥に連れていき、『大人が用意した安全な自然体験』をさせるツアーがありますが、自然の中での体験は、子供自身が『どうしたら危険な目に遭わないか』を判断して行動することを学ばないと意味がないです。体験を通して成長させるのではなく、『体験をさせること』で満足するのは本末転倒でしょう。
「意味がない」ではなく、見る側が「意味を見いだせない」という問題。
「学ぶ」という点において理想を追求するなら「(○○を学びとれないなら)意味がない」ように見えるかもしれないが、実際は体験自体に一定の価値がある。
まず環境刺激。
行動遺伝学では遺伝的な才能が5-8割を占める(分野による)とされているが、後天的なすなわち育つ環境で受ける刺激がその才能を発現させるスイッチ(トリガー)の役割を持っている。
サッカーの才能を持った子供にただの一度もボールを与えないまま育てたら、サッカーの才能があることさえ知らないまま大人になり、大人になって初めてボールを触った時「小学校の頃からサッカーをやっていたら」と後悔することになる。場合によっては機会を与えてくれなかった親や家庭を恨む。
「何を学び取るか」なんて高尚な理由は必要なく、ボールを触らせてみること自体に意味がある。
いわゆる才能の環境閾値説にも通じる話だが、長い目で見ればエピジェネティクス(後成遺伝学)にまで影響する。
日本人の足が昔と比べて徐々に真っ直ぐ長くなってきたのは、畳に正座する文化から椅子に座る文化に移行したからだという説と同じ。生まれた時から変異しない遺伝子だけだったらO脚で短いままなので、後天的な環境刺激が次の代への遺伝に影響を与えていることが見てとれる。
同じように、
「自然の中での体験は、子供自身が『どうしたら危険な目に遭わないか』を判断して行動することを学ばないと意味がない」
は、「意味がない」わけではなく、それは見る側が「意味を見いだせない」または「期待と異なった」と言った方が良い。
『どうしたら危険な目に遭わないか』を学んで欲しいという目標(願望)を掲げている側(親とか)の思い通りにならなかったから意味がないわけではない。
見る側にも才能が必要で、だからこそ「名コーチ」「名監督」という表現が存在する。教え方。育て方。
記事の例では、成長期に山に行ったことがあるか否かそのものが才能発現のスイッチとなりうるので、「山に行ったことがある」だけでも意味がある。
『どうしたら危険な目に遭わないか』まではその時はワカラナイままだったとしても、草や花、または登山というアクティビティに興味を持ち才能が開花するかもしれない。
だから体験そのものに価値がある。
確かに才能がなければ、何を体験させても無駄に終わった(目に見える成果が出なかった)ように見えるかかもしれないが、それは大凡「(親として子に対する教育上の)先行投資の見返りが期待を下回った」(ように感じた)ことに対する「意味がない」という感情でしかない。
自分の期待した取り分(成果)を主張する株主のような状態(笑)。
その「圧」と親の身勝手な理想が子供をダメにしてしまう可能性も十二分にある。それこそ本末転倒。
これだけインターネットでいくらでも情報が手に入る時代なのに、読解力がないばかりに物事を取り違えている人達の方が多い。いわゆる曲解。
それでもパソコンを触ったことがある、インターネットに接続したことがあるという体験に価値がある。
ないより少なからず脳を使っているから。
そこで、「確かな情報を正しい認知で受け止めなければ意味がない」と言いだしたら、誰にパソコンやインターネットを与えるかを選別する必要が出てくる。
そんなことを言っていたら、「イマドキ、インターネットにつないだこともないの?」と世間に通用しない大人になってしまうので、意味があるとかないとか言ってないで、時代についていくこと自体が必要とされるものも多々ある。生きるために。
「不安を煽る」体験ビジネスが存在するのは事実だろう。どの分野にも悪徳業者はいる。
それはビジネスの手法の問題であって、体験そのものが無価値であることにはならない。
問題の切り分けが必要。
仮に自分の代では効果・成果がわからなくても、エピジェネティクスの観点からも体験(環境刺激)は重要だと説きたい。
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