遺伝学上、鳶は鷹を産まない。
事実、いかなる生物も人間以外が人間を産むことはない。
しかし何千万年という非常に長い年月かけてサルからヒトへと進化してきた。
ヒトは世界中の法律や制度のもと同じヒトとして扱われているが、過去にサルからヒトへと進化したように、今現在も遺伝子レベルでは分岐し続けていて、大きな差が開きつつある。そしていつの日か「同じ」と言うには無理があると感じた時に、遡って「NN年代に分岐したと考えられる」という具合に分類される可能性がある。まだまだ相当な時間がかかると思うが。
「鳶が鷹を産む」は、何の取り柄もない(そう見える)凡人の親2人から優秀な子が生まれた時に使われる言葉だが、遺伝という大前提から言えば、思考が逆さま。
才能に限らず顔や声、体型、性格などあらゆるものが遺伝的に引き継がれるものなので、優秀な子が生まれた時点で「ということは親も優れている(遺伝子を持っている)」と考えるのが自然。
「突然変異」で片付けるのは、その親を「何も持ってない」と評価している証なので、自分(優秀な本人)だけ特別扱いして親を馬鹿にしているようなもの。
もちろん、子は優秀なのに一見何の特技もない両親という場合もありうる。それは才能が環境的或いは時代的(*1)に開花しなかっただけで、いざ何かを始めたら思わぬ才能を持っていることが明らかになったりする。
(*1)例えば100年前にプログラミングに向いた思考回路を持った人は、当時プログラミングが全く身近でなかったため、自分の才能に気付かなかった人が多いだろう。しかしその遺伝子が今、そして未来において時代的優位性として発現する。これは既に過去(先祖)から潜在的にあった資質であり、突然変異ではない。
人間は遺伝的性質を引き継ぐ生き物であるという大前提に沿って考えないと、ありとあらゆるものの受け止め方に矛盾が生じる。
才能や容姿に対する「不公平」と言う言葉もそう。
冒頭でも触れたが、長い年月かけてサルがヒトへと進化したように、遺伝型の生き物は、親、その親、更にその親・・・の遺伝子およびエピジェネティクスによる現在の形(結果)なのだから、何万年も前から皆違う方向に進んでいて、その積み重ねを我々は今現在見ているに過ぎない。
だから「私」という“点”で捉えること自体が間違いであり、比較するときは長い長い“線”として見る必要があり、“点”で捉えてしまうと先祖と自分を切り離して考え、自分の才能が突然変異に思えたり、或いは才能や容姿に対して不公平に感じてみたりすることになる。
「親ガチャ」という言葉が出てきたくらいなので、才能(所得すなわちお金を稼ぐ能力を含む)が遺伝か努力かについてはある程度結論に達したのだと思うが、遺伝について解明されればされるほど、恋愛によるパートナー選びから優秀な遺伝子(カタログ?)によるパートナー選びに変わっていくと考えられる(先日の話に通ずる)。結局のところ、所得格差がなくなりさえすれば、「夫婦」のように男女が共に生活する必要さえなくなると言える。
ちょうど時期を同じくして、恋愛をしない若者が増えている。
これは望む望まないを問わず、今後更に「遺伝子が全て」という時代になる。と予想する。
しかし、競走馬などには平気で「サラブレット」という言葉を使う割には、人間の話になると遺伝子の話を嫌う人が多い中、「親ガチャ」という言葉が出てきたことが興味深い。親の所得が子の学歴に影響し、それが大凡子の将来所得を決定付けるというデータが揃ってきたというのも大きいのかもしれない。
という話になると「じゃぁ努力しても無駄なのか」と考える人がいる。
遺伝的な才能に差がある場合、それを補うだけの努力をしなければ、10年後食べていくことすら困難かもしれない危うい状況下にあると考えたら、努力が無駄かどうか答えが出るだろう。
遺伝的な才能の話と、生きるための努力の話は別であり、努力すれば皆が同じようになれるわけでもない。
ということから、親子や先祖・子孫の関係とは長い長いレースをリレー式で走っていると捉えることで全容が見えてくる。ソコを個々の短距離走のように捉えてしまうと間違いが生じる。
当たり前のことなんだが。
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