前稿に関連して、多様性の時代だから多様性を学ぼうとしても、体験できるか否かにも格差がある。
代表的なのは留学。お金がないとできない。
前稿では学力格差が問題となっているが、成績の良い子供が普通校に行くことはできてもその反対はできない。
所得格差も同じで、裕福な家庭が質素な家やエリアに住むことはできても、その反対はできない。
出世コースの人が「いろいろ見てこい」と地方や海外支店・支局に移され、いずれ本社に戻る流れも同じで、「いろいろ見てくる」ことが重要視されている社会。
よって多様性が重視される時代になればなるほど環境(≒所得)格差が成長・発達(=体験できる度合い)を左右することになる。
理想を語る人達は「格差をなくそう」=高所得者に増税をと主張する。
「富の再分配」として高所得者達を称えるならまだしも、「不公平だ」という前提にあるので厄介だ。
稼いだ人からたくさんとって稼ぎの少ない人に補填する。言うまでもなく社会主義・共産主義の始まりであり、努力は報われなくなるし、どこかの誰かが埋め合わせてくれるのをあてにする“堕落”者が増える。生活保護の不正受給と同じ。
どんなに稼いでも実入りは他と同じだと、賄賂・横領が増える。真面目に働くのがバカバカしいから。
資本主義経済における富を努力の結果として認めない(不公平と主張する)のであれば、能力差は遺伝(家系)だと決定付けることになる。すなわち遺伝子に差があるから、生まれながらにして扶養する側・される側が決まっている説を支持することを意味する。
※スティーブ・ジョブズのように一代で成功する人もいるんだが。
世間はどこに落とし所を求めているのか私にはワカラナイ。
歴史は繰り返すと言うが、実際この10年ほど社会主義を見直す動きがあるのも事実だ。競争や格差に疲れたのだろう。
しかし皮肉なもので、社会主義を望んだ人達の子孫がいずれ資本主義を望むことになる。
なぜか。
資本主義経済下の富を「努力の結果」として見なさず不公平だと主張した結果社会主義の時代が訪れた。皆が横並びで格差なし。めでたしめでたしだが、出世する人達は仕事量や責任に対価が見合わないから賄賂・横領が当たり前になる。
すると権限のある者達が美味しい思いをする社会が形成される。
その結果平均以下層は「努力が報われない」(汗水流して働いているのはオレ達だ)と感じるようになる。そして「開かれた社会を」と望むようになる。
だからルールを変えても結果は同じである可能性が高いと言える。
というわけで私は時代に対応するしかないというスタンス。こうして欲しいああして欲しいとは望まない。そもそも根本的な解決策も思い浮かばない。
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